「歴史あるおやつ」というイメージのある干し芋(ほしいも)はいつから食べられているでしょうか?
ほしいもの歴史は意外と新しく、誕生したのは1824年、江戸時代末期の頃です。その誕生には、2人の「いもじいさん」が関わっていました。
難破船を救った「いもじいさん」
1766年の春、薩摩藩(現在の鹿児島県)の御用船が嵐に遭い、遭難しました。
乗員24名が波に飲まれかけていたそのとき、遠江国(現在の静岡県)の村役人 大澤 権右衛門(おおさわ ごんえもん) が救助に向かいます。命がけの救出作業の末、全員が無事に助け出されました。
感銘を受けた薩摩藩の役人は、謝礼として金20両を差し出したと伝えられています。しかし権右衛門は「難破した船を助けるのは村の慣わしだ」と言ってこれを断りました。
代わりに薩摩藩が差し出したのは、当時 門外不出とされていたさつまいも3本と、その栽培方法 でした。こうして御前崎の地に初めてさつまいもが根を下ろしました。権右衛門はのちに「いもじいさん」と親しまれるようになります。

いもじいさんの碑(御前崎市HPより)
ほしいもを発明した「いもじいさん」
さつまいもが遠江国に伝わってから約60年後。さつまいもや海産物の行商をしながら暮らす 栗林 庄蔵(くりばやし しょうぞう) という男がいました。
庄蔵はさつまいもをもっと軽く、運びやすく、長持ちする形に加工できないか、と悩んでいました。1824年、庄蔵がついに思いついたのが、さつまいもをまるごと釜で煮てから薄く切り、セイロに並べて天日干しにする という方法でした。煮ることで甘みが引き出され、乾かすことで保存がきく。この「煮切り干し」こそが、ほしいもの原型です。
庄蔵もまた「いもじいさん」と呼ばれ、地元に愛され続けました。御前崎市白羽地区には現在も「切干し爺さんの碑」が建てられており、ほしいも誕生の地として今に伝えられています。
200年変わらないもの
1824年から200年。ほしいもは時代をまたいで、ずっと食べられてきました。
保存食として、携行食として、おやつとして。その形は変わっても、余分なものを一切加えず、さつまいもを乾かすだけという製法の本質は、栗林庄蔵が生み出したあの日から変わっていません。
「ほしいも図鑑」も、その200年続く美味しさをお届けしています。ねっとりとした甘さで人気の「べにはるか」を使い、さつまいもそのものの力をそのままに。難破船の奇縁から始まったひとつのいもの物語が、今日もあなたの手元まで続いています。





